新暦1871年12月23日(本節は以下新暦で記す)に横浜を出港し、1872年1月15日にサンフランシスコに入港[34]。2月25日にシカゴに到着、翌日の夜にはワシントンD.C.に向けて出発した[37]。シカゴで撮影した、洋装に着替えた5人の記念写真が残されている[39][40]。著名な画家・著述家・旅行家であった[注 8]ランマンは、当時、日本弁務使館書記官(Secretary of the Japanese Legation)を務めていた[40][注 9]。新暦1872年5月1日には駐米少弁務使森有礼の斡旋で、留学生5人はワシントン市内に集められて同じ家に住まわされ、生活に必要な最低限の英語の勉強をさせられた[46]。残った3人が梅子、山川捨松(のちの大山捨松)、永井繁子(のちの瓜生繁子)である。出典:ウィキペディア
- 上田悌子[注 6](幕臣・上田畯の娘[30][31]、満14歳[24]〉
- 吉益亮子(幕臣・吉益正雄の娘[31]、満14歳[24])
- 山川捨松(会津藩家老・山川浩の妹[31]、満11歳[24])
- 永井繁子(幕臣・永井玄栄の養女[24][31]、かつ幕臣・益田孝の実妹[24][31]、満8歳[24])
- 津田梅子(幕臣・津田仙の娘[31]、満6歳[24])
※各人の満年齢は、日本を出国した新暦1871年12月23日現在[24]。児童用品研究会『日本玩具集』(2冊)大正6年山田直三郎/芸艸堂刊 彩色木版画譜 郷土玩具・郷土人形集 武田真一 巌谷小波。梅舒適弟子 川合東皐 聴雨山館印存 限定200部 検索: 印譜 書道 印影 封泥 篆刻 金石鼓文 羅振玉 花押 支那 呉昌碩 朱印 雅印 遊印 古璽印。第二の両親、ランマン夫妻[編集]